年間第11週・月曜日 91 恩恵の生活

― 新たな命。キリスト信者の尊厳。 ― 神の本性に与らせる成聖の恩恵。 ― 恩恵はキリストとの一致に導く:素直さ、祈りの生活、十字架を愛する。

年間第11週・月曜日

91 恩恵の生活

― 新たな命。キリスト信者の尊厳。

― 神の本性に与らせる成聖の恩恵。

― 恩恵はキリストとの一致に導く:素直さ、祈りの生活、十字架を愛する。

91.1 新しい生命。キリスト者の尊厳

洗礼によって、成聖の恩恵が注がれた時から、私たちはキリスト者として新たな超自然的生命を得ます。私たちが今得ているものは、キリストを信じる者だけが所有する特別の生命です。「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってではなく、神によって生まれたのである」。洗礼で、キリスト者は、キリストの本当の生命、または、キリストご自身の生命を生き始めます。 イエスと私たちの間に、人間社会に存在する交わりとは違う、もっと強い、親密な生命の交わりを生じるからです。主との一致は、あまりにも深淵なので、本当にそこにあるように、神の生命が私たちの霊魂の内に育つことを可能にしながら、キリスト者の生き方を根本的に変えます。その結果、神の命が彼らに属しているかのように彼らの中で成長するのです。主はぶどうの木とその枝について話されています。 聖バウロは、共有するこの生命を頭と身体との一致にたとえています。 同じ樹液がぶどうの木とその枝に生命を与えるように、同じ血液が頭と身体の各部分を流れるのです。

その最初の結果は、神の子として私たちが創られたという、他と比べものにならないほどの祝福に現れます。神の子は、単なる称号、または、説明のレッテルではありません。人が自分の子として他人を養子にするとき、その人に名前と財産を贈与します。愛情を注ぐことができます。しかし、その性格とか生命を分かつことはできません。人間の養子縁組は必然的に外面的なことだけです。というのも、人間を他の種の生物に変えるわけでも、養子になった人に何か完全なものを付け加えるわけでも、衣服や住居のような外的な完全性以外のもの、つまり文化などを向上させる特別の手段を付与するわけでもありません。しかし、神の養子縁組は異なります。私たちは、紛れもなく養子にされたもの、現実的な本質に驚異的な改善を生み出す、全く新しい生命を獲得するのです。「愛する者たち、わたしたちは、すでに今神の子です」。これは作り事、ただの言葉の綾(あや)、または、称号を単に授与するのではありません。なぜなら、この霊こそは、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくれるからです。 それはあまりにも素晴らしく喜ばしい現実なので、聖パウロはこう叫びました。「従って、あなたがたは、もはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」。キリストが私たちに与えられた新しい生命を、溢れるほどに生ずる泉の源であると頻繁に考えることは、私たちの霊魂にどれほど役に立つことでしょう! 聖ペトロは、こう記しています。「キリストによって、神は、私たちに尊く、素晴らしい約束を与えてくださいました。それは、あなたがたが、これによって神の本質にあずからせていただくようにするためです」

このような驚くべき謙遜を考えてみると、私たちの頭と心は、こんな豊かさを与えてくださったことに対して、主に常に感謝を表したいという気になります。そして、私たちが受けた高価な宝を常に自覚しながら生きることを決心します。天使たちは、尊敬と賞賛をもって恩恵のある霊魂を見つめます。ところで、私たちはどうでしょうか? 私たちは、この計り知れない宝を受けている、またはこれから受けるように招かれている兄弟たちを、どのように眺めているでしょうか。私たちの霊魂にとって価値あるものを本当に高く評価していますか。私たちのこの認識は、私たちの振舞いに反映されていますか。たとえどんなに些細なことでも、キリスト者としての状況に相応しくない事は、何であっても避けるために細心の注意を払っていますか。

91.2 神の本質を分け与える聖化の恩恵

初めの創造の後、人間が神のみ手から新しく生まれた時は、新しい創造でした。しかし、罪のお陰で人間は老い、内部破壊が起きてしまいました。そこで、神は、新しい被造物を創られたのでした。 成聖の恩恵、神の本質への限られた参加は、被造物であることを止めることなく、人を神に似た者にし、実際に親密に神の生命を共有するのです。

この成聖の恩恵は、私たちの霊魂をあらゆる汚れから清める、一種の輝きと光を生じる内的現実であり、(霊魂を)最も美しく、輝かしいものにします10。 この恩恵は、最も親密な愛で私たちの霊魂を神に一致させるものです11。 次に、その恩恵こそ最高に素晴らしい善であると確信して、どのように守るべきでしょうか? 聖書は、その恩恵を神が信仰深い人々の心に着せた上着12、人の内面に根を降ろした種13、永遠の生命に絶えず湧き出す水の源14にたとえています。

成聖の恩恵は、何か特別な活動を行ったり避けたりするのに役立つ、助力の恩恵と呼ばれる、衝動や霊感のような束の間の一時的な賜物ではありません。それは、超自然的生命の永久の信条で15、霊魂の本髄に見出される不変のものと言えます。たとえ、それが大罪で失われる可能性があるとしても、安定した永続するものを生み出すという理由から習慣的恩恵と呼ばれています。

恩恵は、自然の秩序を壊しませんが、予め考えられたように、それを高め完成します。そして、自然的、超自然的秩序は、どちらも神から生み出されているので互いに役立っています。 そこで、キリスト者は、この地上での生命の現世的義務 - 仕事、家族、その他 - を少しも放棄することなく、超自然的生命によって、自然の生命そのものを向上させ、完成させ、高貴に至るまで調和して機能するのです17

私たちは、この特権とその権利が与える尊厳を持って、全生活でそれに準じた生き方と振舞い方をしなければなりません。恵まれたこれらの賜物を、一日中片時も忘れてはいけません。もし日々の義務を行う只中で、神である御父が私たちに与えられた栄誉を心に留めておくなら、私たちの人生は全く異なっていることでしょう。恩恵のおかげで、私たちは神の子と呼ばれるだけでなく、実に神の子になったのです18

91.3 恩恵は、キリストと同化させます。従順、祈りの生活、十字架への愛

成聖の恩恵は、キリスト者を予知し、その人を神の子とし、至上の聖三位一体の神殿に招き入れます。この存在の近似性は、必然的に私たちの仕事や考え、行動や望みに、また内的生活での進歩の度合いに反映されるべきです。つまり結果的に、私たちの純粋な人間的生命はキリストの生命にとって変わるのです。そこには、洗礼者ヨハネの言葉が暗に示す内的作用が霊魂の内で実現しなければなりません。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」19。私たちの心に、キリスト・イエスと同じ精神を心の中に持つ望みをもっと固めてくださいと願わなければなりません20。 自分の利己主義を根こそぎにして、自分のことを考え過ぎないように、またどのような類の生温さもすべて心から排除するよう、私たちを助けてくださいと主に願いましょう。キリスト者としての誇りを持つということは、あらゆる徳を最も完璧に所有している主を模範として、黙想しなければならないだけでなく、自分の振舞いに、イエス・キリストの教えと生活を再現しなければなりません。他の人々との付き合い方、その人々の悲しみを自分のことのように思いやること、専門職を完全にするように努力することにおいて、主がなさったように振舞わなければなりません21。 30年間のナザレにおける隠れた生活を模倣するのです。

このようにして、キリスト者の生活の中でイエスのご生活が繰り返されます。それは聖霊の素晴らしい働きによって徐々に主に似ていくことで実現しますし、主に完全に同化することで完成され、ついには天国でキリストと一致するのです。しかし、祈りの中で、このことを静かに考えてみましょう。キリストとのこの同化を成し遂げることは、全生涯の本当に明確な方針が要求されます。自分の聖化を主と協力して成し遂げつつ、聖霊の働きの妨げになるものを取り去り、常に、神が最も喜ばれることを行うよう努めることです。私たちは、イエスのようにこう言うことができるように努めます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行い、その業を成し遂げることである」22

この恩恵との一致は日に日に現実のものとなっていきますが、主(おも)に次の3つの事項に集約されます。何よりもまず聖霊の霊感に素直であること、霊的指導の下(もと)で決めている信心の業をすることで、どういう状況でも常に祈りの生活を保つこと、そして償いの精神をしっかりと養っていくことです。素直であることが第一です。聖霊はその勧めによって私たちの思い・望み・働きに超自然的な色合いを添えてくださる御方であるからです。人々にキリストの教えを深く吸収させ、従わせるように導く御方、各個人の使命を自覚させ、神のお望みをすべて果たすための光をお与えになる御方は聖霊です23。 その同じ聖霊は、個人的な内的成長において、そして、友だち、親戚、同僚の間で行わなければならない多くの使徒職において、私たちを助けてくださいます。第二は祈りの生活です。キリスト信者の温和、従順、奉献などは愛から出て愛に向かって進むべきものです。その愛によって、交わり、語り合い、友情が生まれます。キリスト信者の生活は、唯一にして三位なる神との絶え間ない対話を必要とします。聖霊のお招きになる親しい交わりとは、その対話のことであります24。 最後に十字架との一致を挙げることができます。キリストのご生涯においてカルワリオがご復活や聖霊降臨に先行したように、同様の過程がキリスト信者の各々の生活の中にも再現されるべきなのです25。 ですから第一に、私たちは遭遇する大小の矛盾を受け入れ、日々たくさんの小さな犠牲を受け入れ、主に捧げます。そうすることで、私たちは自分の生活を清め、神との深く親しい対話をするようになり、贖いを共にする思いで自分を主の十字架と一致させます。

今、祈りを終えるにあたって、次の3つの点でどのように恩恵に一致した態度をとっているか糾明しましょう。恩恵の生活の向上は、この一致によるからです。祈りや神の現存のうちに、また犠牲において、すでに自分が到達している基準で満足していることは望みません、と主に申し上げます。神の恩恵と聖母のご保護によって、私たちは人生に意味を与えてくださる目標であるイエス・キリストとの完全な一致に達するまでは休みませんから。

ヨハネ1:13

ガラテア3:27 参照

ヨハネ15:1-6

1コリント12:27

1ヨハネ3:2

ロ一マ8:16

エフェソ2:19

2ペトロ1:4

聖トマス,Commentary on Second Epistle to the Corinthians,IV, 192 参照」

10 Catechism of the Council of Trent, II 2 ,50

11 Catechism of the Council of Trent, II 1,9,8 参照

12 2コリント5:5 参照

13 1ヨハネ3:9 参照

14 ヨハネ4:14

15 Pius XI, Casti connubii, 31December 1930

16 Pius XI, Divini illius Magistri,31December1929 参照

17 Pius XI, 第2バチカン公会議,教会憲章,40 参照

18 1ヨハネ3:1 参照

19 ヨハネ3:30

20 フィリピ2:5

21 Pius XII Mystici Corporis,29June1943 参照

22 ヨハネ4:34

23 聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,135

24 聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,136

25 聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,137